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ひやりと冷たい感触が頬を這う。冷たいだけでなく硬い。 おかしいな。私はベッドで眠っていたはず。 寝ている間に床にでも落ちてしまったのだろうか。 そう思って瞼を開けたくとも、まるで目蓋がくっついているかように開くことが出来ない。 はて、どういうことだろう。 目も開けられない暗闇の中で、何処からかカチカチと聴き馴染みのある音がする。 まるで時計の秒針のような音だ。 それは何処か子守唄のようで。 浮上しかけた意識がまた、沈んで行こうとする。 深く深く闇に呑まれていくような。けれどそれを“怖い”とも“悲しい”とも思わなかった。 徐々に抜けていく四肢の脱力感に身を任せると、意識は不思議といとも簡単に落ちて行った。 ――――― ――― ― そ…っと戸に手をやり、彼はふと中から漂う空気に身を固くした。 毎朝の日課。欠かさずこの戸を開き続けた彼だからこそ分かる些細な変化。 “何かが違う” 腰に備えた刀の鯉口を切る。いつでも抜けるようにして息を詰め、薄く開いた戸口から中へ気を飛ばした。 中はいつもと同じように依然暗く、言ってしまえばその暗闇に何が紛れていてもおかしくはない状態だ。 しかし部屋の空気が纏う気は、いつもとは違うが神聖たるものと変わりがなかった。 琴線が張り詰めたかのような美しさすら感じさせるこの空気。 誰かが侵入していればこうはならないだろう。 では何が。更に戸を開く手に力を込めて、中の様子を伺い見る。 すると、光の筋に照らされて何かが祭壇の前に落ちているのが見えた。 否。落ちているという表現は可笑しい。 何かが横たわっている。 静かに戸を滑らせると、それは徐々に形を露わにした。 「にんげん、だと…?」 普段自分たちが対峙する、遡行軍とも違う人型のそれ。 刀剣男士であれば何となく分かるはずだが、それとも違った。 白い装束を着ているが故、まるで物の怪や幽霊の類と見紛う。 生憎と、非現実なものにおいそれと恐怖を抱く性分ではないせいか、 至って冷静な自分がいるのを感じていた。 殺気を飛ばして見るもそれは動く気配は全くない。 何者だ。何故主のおわすこの神聖な場所に。 いつからここにいた。 何故気付けなかった。 自分を蝕む責め苦に奥歯をギリと噛み締める。 ここがどれ程までに重要な場所か。 何処から来たかも分からぬこのような粗暴な輩に。 我らの主を冒涜したも同等たる行為。 ふつふつと湧き上がる怒りに任せてその部屋へ足を踏み入れて、ふと違和感を覚える。 薄布の向こう側に鎮座するはずの神鏡。それがない。 左右と視線を走らせると、祭壇の前に横たわる者の足元に割れた神鏡を見つけた。 ぷつり、と張りつめていた糸が切れるような気がした。 おい貴様。と声が漏れそうになる。 普段の自分からは決して出て来ないような暴言が次から次へと浮かんでくる。 とうとう蹲るそれの前に立って、――――刀の柄を握っていた手から力抜けた。 「なん、だ」 一瞬にして毒気を抜かれたかのような。 先程まで怒り心頭としていたのはなんだったのか。 自分の胸に手をやってしきりに瞬きを繰り返す。 胸を満たしていた黒い感情の代わりに湧き上がってくる、泣きそうなほどにじわりと込み上げてくるこの哀愁。 何故だろう。自分は、この方を。 横たわるその人間の傍へ屈みこんだ。 近づいてそれが初めて“女性”であることが認識できる。 背を向けているそれに手を伸ばして肩に触れた。 途端、掌に伝わってくる温かさ。 生きている。この者は生きているのだ。 「―― … ある、じ」 突如口を突いて出てきた言葉。 無意識であったことを、名を紡いでからハッとして理解する。 だが、自分は分かる。 これが、この人こそが。 ―― 待ち焦がれた、『主』であると。 「主」 ん、と蚊の鳴くような小さな声が漏れた。 ころんとこちらへ寝返りを打った彼女はどうやら眠っているようで。 顔に掛かる髪へそっと手のばす。 全身が拍動し手が震えた。自分が緊張しているのが分かる。 柔らかな髪に触れ、優しく横へ流してやるとようやく顔が良く見えた。 あどけない寝顔。 まるで幼子のように眠る彼女に、どうしようもなく切なくなる。 頬へそのまま手を滑らせて包んでやると、きゅっと寄せられる眉。 ふ、と息が漏れるが、それと同時に目頭が熱くなった。 ああ。ああ。 分かる。分かるぞ。 姿を見たこともなければ。声も聴いたことさえなかったが。 「主。俺の、主」 胸を焦がすような燻りが、じんわりとあたたかくする。 堪えきれなかった涙がほろりと落ちると、それは眠る彼女の頬を打った。 う、という声と共に、ゆっくりと開かれる目。 その透き通るようなガラス玉のような瞳に自分の姿が映り込むのを見て。 彼は微笑んだ。泣き顔なんてみっともないではないか。 「だ、れ…」 「…へし切長谷部。あなた様の…主の、いちばんの臣に御座います」 やっと、お会いできた。 |
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【あとがき】 やっぱり本丸で一番に出迎えて欲しかったのは長谷部です(笑) 主第一だからこそ警戒も人一倍ですが、主には絶対的な赦しがありますしね。 いつもの気紛れ企画なので、熱が高いうちにはザクザク話は書き進めます。 何処までで完成とかそういうのが決まっていないので、一旦出来るところまで、で頑張ります。 [2017/7/23] |